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ゲイを描いた中国映画といえば、すぐ思いつくのが王家卫(ウォン・カーウァイ)の
春光乍泄(ブエノスアイレス) 1997
でしょう。张国荣(レスリー・チャン)はどちらかといえば丸顔で、梁朝伟(トニー・レオン)はけっこうとがった顔をしています。
春风沉醉的夜晚(スプリング・フィーバー) 2009
における、とがり顔の秦昊[チン・ハオ](江城)は 《春光乍泄》 の梁朝伟、丸顔の陈思成[チェン・スーチャン](罗海涛)は 《春光乍泄》 の张国荣に相当する--そんなふうに考えると 《春风沉醉的夜晚》
の構図がわかりやすくなるように思います。
監督の娄烨もシナリオの梅峰(メイ・フォン)も、《春光乍泄》 を見たことがあり、この映画を作るにあたって再度見直したことでしょう。それは、秦昊と陈思成という役者選びにもつながっているように思います。
梅峰が娄烨映画のシナリオにかかわるのは 《紫蝴蝶(パープル・バタフライ)》 2003 からで、このときは娄烨がシナリオで、梅峰はシナリオ顧問として参加したようです。梅峰と娄烨は、気があったのでしょう。次の 《颐和园(天安門、恋人たち)》 2006 のシナリオは、娄烨と梅峰と(马?)英力の三人です(?)。
この 《春风沉醉的夜晚》 では、シナリオを梅峰一人にまかせます(ほんとうにそうかどうかは不明?)。
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周末情人(デッド・エンド 最後の恋人) 1993|《苏州河》 马达(贾宏声)のその後
危情少女(危情少女 嵐嵐) 1994|娄烨の “おさげ少女シリーズ” スタート!
苏州河(ふたりの人魚) 2000|聡明な蓉儿を演じられたのは周迅だけである
紫蝴蝶(パープル・バタフライ) 2003|《苏州河》 から 《推拿》 までの距離、あるいはテロの時代
颐和园(天安門、恋人たち) 2006|娄烨は肩を並べて顔を寄せ合う男と女のカットが好きである
春风沉醉的夜晚(スプリング・フィーバー) 2009|娄烨が封印したトキメキ感が復活する予感
花(パリ、ただよう花) 2011|できごとはどしゃ降りの雨の中で起こる
浮城谜事(二重生活) 2012|”おさげ少女” の半分復活、あるいは新生 娄烨のすてきなカット
推拿 2014|目をつむって娄烨の “見えない映画” を見る
推拿 2014|新浪娱乐インタビュー : “娄烨 《推拿》 について語る”
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《紫蝴蝶》 2003 で商業映画を目指した娄烨は、興業的に失敗します。で、それまでの映画監督としての蓄積をすべて捨て去って、一から自分の映画を再構築しはじめた習作が 《颐和园》 だったように思います。
《颐和园》 は天安門事件とかセックスとか、そういう視点から語られてしまうと “自由を求める青春の焦燥” とか、いかにも欧米民主主義というかハリウッド的倫理観の枠におさまってしまいます。そういうのは抜きに、ただの映画として見ると、かなりぶっ壊れていたと思います。
劣悪な制作環境ではあっても、とてもスリリングな状況の中で、新たな娄烨映画の第一歩を踏み出したのが、この 《春风沉醉的夜晚》 ではないでしょうか。
計算されたカットを捨て、見えるものをリアルにあるいは乱暴に映し出すのが 《颐和园》 だったとすれば、そんな姿勢を維持しながら自分の映画の文法を作りはじめたのが 《春风沉醉的夜晚》 でしょう(ぼくは 《颐和园》 にはすてきなカット、すてきなシーンがないと言っているのではありません)
たとえば 《颐和园》 での大学でのダンスシーンと、《春风沉醉的夜晚》 での路上での江城(ジアン・チャン)と王平(ワン・ピン)のダンスシーンを思い出してみましょう。
《苏州河》 2000 で、ぼくたちはトキメキ感というかワクワク感をたっぷりと楽しみました。しかし、娄烨は 《紫蝴蝶》 と 《颐和园》 では、そんなトキメキ感を描くことを禁止します。《春风沉醉的夜晚》 では、この路上ダンスシーンも含めて、ポツン、ポツンとトキメキ感が復活します。
最大のトキメキシーンは、もちろん江城が男扮女装(女装)で歌うシーンでしょう。それをうっとり見つめる海涛(ハイタオ)の表情もすてきでした。あるいは、郁达夫(ユー・ダアフー)の小説がぶっきらぼうに読まれるシーンも、トキメキ感の表出と言っていいように思います。ラストシーンは、ほとんどトキメキなシーンになっていました。
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この映画がなんでゲイを描いているのかというと、ひとつのメリットは “ハリウッド的倫理観(欧米民主主義)” の枠で語られてしまうことから離脱できるからです。あるいは、ただ単にヨーロッパ受けを狙っただけかもしれません。
しかし、王家卫の 《春光乍泄》 と異なるのは、男と男の関係に女が割り込んでくることです。え! このトリオのロードムービーが始まるの? というワクワク感もかもし出されるのですが、李静[リィ・ジン](谭卓)はあっさり失踪してしまい、江城は海涛をあっさり振ってしまいます。
この道中で(あるいはこの映画で)もっともすてきなシーンが、船の中で(左から)江城-李静-海涛が並んでいるところです。たぶん、娄烨自身のチョイスなんでしょう。この映画のたいていのポスターには、このカットが採用されています。
ぼくたちは、娄烨が一番好きなカットが、男と女が肩を並べ顔を寄せ合うシーンであることを知っています。それは “互いにある部分ではつながっているものの、同時に違う部分ではつながってはいない” ことを表現するカットです。
だからこそぼくたちは、江城-李静-海涛が並んでいるこのシーンで、この三人が肩を並べ顔を寄せ合うのだろうか? と、ある種の “そうなってほしいという淡い期待感” と、同時に “しかし、それは絶対にあり得ない感” を覚えることになります。
もちろん、江城-李静-海涛は、顔と顔を寄せ合うことはありません。この三人はばらばらの個人であって、連帯という幻想に手を差し出すわけではないからです。もっと正確に言うと、海涛は江城-李静と顔と顔を寄せ合う可能性はありますが、江城と李静にはその可能性はありません。
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だからといって、娄烨の映画を “愛の不可能性” とかいった、そんなつまらない言葉の枠に押し込めることに意味はないでしょう。“男と女が肩を並べ顔を寄せ合うシーン” は、いまだ娄烨にとって、もっとも大切なカットのひとつであるはずです。
それを描かないことも、その切実さを表すひとつの表現でしょう。ぼくたちは娄烨の、“肩を並べて顔を寄せ合う男と女” のカットが、これ以降どんなふうに展開するのか、楽しみにしていようと思います。
あと、この映画のラスト近く、李静が江城を襲撃するシーンがあります。李静は(たぶん)割れた陶器の破片で、江城の首筋を切りつけます。このカットと、それに続くシークエンスは覚えておいてください。
ある映画監督が自分が撮ったカットを、後の映画で再び使うのは珍しいことではありません。娄烨の最新作 《推拿》 では、このカットがどんなふうに変奏されるのか--これも楽しみにしておきましょう。
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最後に、罗海涛を演じている陈思成と、江城を演じている秦昊について、ちょこっと紹介しておきます。
陈思成が誰かというと、佟丽娅(トーン・リーヤー)のだんなです。佟丽娅が誰かというと、昨年日本でも放映されたテレビドラマ 《宮(宮 パレス~時をかける宮女~)》 2011 の素言(スー・イエン)です。あるいは、《致青春(So Young~過ぎ去りし青春に捧ぐ~) 》 で心の病になってしまう施洁(シー・ジエ)です。
甘い顔つきが张国荣に似ていなくもない陈思成は、テレビドラマのアイドルというか人気者です。
杨幂も出ているのですが、佟丽娅をヒロインの中心にすえた テレビドラマ 《北京爱情故事》 2012 では、陈思成は監督業に乗り出します。
《北京爱情故事》 はわりと評判になって、陈思成は映画版 《北京爱情故事》 2014 も作って、やっぱり監督もします。もちろん、佟丽娅も出ていて、そんなこんなで二人は結ばれたのでしょう。
一方の秦昊(伊能静のだんなです)は、いわゆる個性派役者みたいな存在なのでしょう。あるいは、国際派な役者と言ってもいいのでしょう。とても見る気にはなれませんが、日本を舞台にした 《初到东京(東京に来たばかり)》 2013 でも主演しています。
秦昊は 《春风沉醉的夜晚》 以後の娄烨映画にもつきあいます。どんな役を演じていくのか、楽しみにしておきましょう。
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