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宁浩の(たぶん)2つ目の作品が、
香火 2003
です。宁浩が 《星期四,星期三》 2001 を撮ったとき、たぶん娄烨の 《苏州河(ふたりの人魚)》 2000 は見ていなかったように思います。宁浩が、この 《香火》 を作ったときには、《苏州河》 を見ていたように思います。
なんでこんな話をしているのかというと、東京フィルメックス(映画祭)の第1回(2000)最優秀作品賞が娄烨の 《苏州河(ふたりの人魚)》 で、第4回(2003)最優秀作品賞がこの 《香火》 だからです。
娄烨は、なんだか迷路のなかでさまよっているようです。でも、娄烨の 《苏州河》 は、なんてチャーミングな映画だったことでしょう。
宁浩は 《星期四,星期三》 でこそ、ちょこっと恋愛を描くわけですが、その後は恋愛など語りません。この 《香火》 でも、恋愛が語られれる余地など微塵もありません。だって、これは坊さんの物語だからです。
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この映画の主人公は、坊さんと自転車と街の喧騒です。
坊さんは、山西省怀仁县あたりの南小寨という小さな村で、小さな庙(廟)を運営しています。怀仁县というのは北京から見ると西(左)のほうにあって、宁浩が生まれた山西の太原から見ると北(上)のほうにあります。
ある日、庙の主人である仏像が壊れてしまいます。坊さんは、新しい仏像を調達するために、自転車を借りて街に出ます。
これは、新しい仏像を調達するために、自転車に乗ってあちこちを奔走する坊さんのドキュメンタリーなのだと言われたら、なるほどと納得してしまうことでしょう。
ただし、この映画を見終わったとき、ドキュメンタリータッチなどという言葉を使ってはいけません。ドキュメンタリーはフィクションじゃない--これって、とんでもない誤解です。
ドキュメンタリーは、事実を語ろうとして必ずや物語を語ってしまうからです。人間、真実、愛、正義、悲劇、感動……哦哦。
ドキュメンタリーが物語を語ってしまうのであれば、フィクションがドキュメンタリーを写し出したっていいでしょう。
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この 《香火》 は、フィクションから出発したドキュメンタリーなのです。この映画は、人間とか真実とか愛とか正義とか悲劇とか感動とか、そういった意味性をはじめから捨て去っています。
人間が勝手にでっちあげた価値観という意味性から自由になるとき、いったい何が見えてくるのでしょう? それは価値や意味から無縁な、むきだしの出来事です。
では、むき出しの出来事があからさまになるとき、そこには何があるのでしょうか? それは、即物的というか唯物的なむき出しのお笑いです。
チャップリンの映画がなんで見るに値しないのかというと、お笑いと愛と涙をごっちゃにしたとき、そこにはむきだしのお笑いなど存在するべくもないからです。キートンがなんで面白いのかというと、むき出しの出来事であるお笑いを描こうとしたからです。
たとえばマルクスの 《ユダヤ人問題に寄せて》。この本を読むとき、ぼくたちは腹を抱えて笑ってしまいます。価値とか意味とかがすべて剥ぎ取られるとき、そこではむき出しの出来事であるお笑いが明らかになるからです。
たとえばニーチェ。ぼくは苦手なところもあるのですが、お笑いとして楽しめるところも少なくありません。あるいはニーチェ大好きなドゥルーズ。ドゥルーズがニーチェを語るとき、むきだしの出来事、むきだしのお笑いを連発します。このお笑いは、マルクスがお手本になっているように思います。
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そういうわけで 《香火》 の後半、坊さんが役所や師匠に頼ることは不可能であることが判明し、自分で金を工面する作戦に出るあたりから、ぼくたちはついついくすくす笑い始めてしまいます。映像がむき出しの出来事を映し出すとき、むき出しのお笑いが生まれるからです。
たとえば二胡弾き。なんで坊さんが、二胡弾きの物乞いを見て、お布施でお金を調達することを思いつくのか。《星期四,星期三》 でも、宁浩は二胡弾きを登場させました。やがては、《奇迹世界》 でも二胡弾きが登場します。
坊さんが拘置所に放り込まれると、あらかじめ勾留されていた娼婦3人が、厚生のためのビデオを見せられています。娼婦たちと坊さんのやりとり。
坊さんは、ついには算命(占い)の本を買って、算命先生(占い師)までやります。哦哦。しかし、チンピラたちに、これまで稼いだお金をすべて奪われてしまいます。
坊さんは、ひとまず村に帰ろうとします。けど、その前に、ずっと気になっていたボロボロの靴のことを思い出して、靴の底に隠しておいたお金で新しい靴を買います。
しばらく後で、宁浩は出所したチンピラが新しい靴を買うシーンを再び描きます。《奇迹世界》 をまだ見ていない人は、チンピラの黄渤が靴を買うシーンを楽しみにしておいてください。
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この映画では、坊さんの行動を時系列で追うため、時間が後先する表現こそないものの、いかにも宁浩らしい、普通ならば出会うことのない人間が出会ってしまい、物語が二転三転するお笑いが展開されます。
ここで、宁浩映画の基本フォーマットが完成したわけです。
お金を失った坊さんの物語は、このあとさらにいくつかの逆転が用意されています。そのときぼくたちは、もはやくすくす笑いではなく大爆笑してしまうことになるでしょう。実際に見て、笑ってください。
あ。だけど、《星期四,星期三》 にしろ、この 《香火》 にしろ、現在(2014年)の日本の一般的な環境で、見られるのでしょうか? ぼくは、調べたことがないのでわかりません。
もともと関係のない人間同士が出会ってしまいドタバタが展開するパターンは、 《疯狂的石头》 以降の宁浩映画に受け継がれるわけですが、もうひとつの宁浩の得意技もこの映画に登場します。それは、登場人物たちが地元の言葉をしゃべることです。
じゃ山西方言ってどんななんだよと言われても、ぼくには説明できません。山西は北京の西隣りです。北京方言とは、飴を舐めながら喋る言葉などと言われます。この映画の山西方言を聞いていると、飴を二個舐めながら喋る言葉みたいな感じです。
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