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ラベル“甄嬛传” 21
百度百科によると、雍正が密建皇储(太子密建)を導入したのは雍正元年(1723年)八月とあります。ところが、ドラマでは密建皇储の話はちっとも出てきません。
太子密建については、日本語ウィキペディアから引用しておきます。
--皇帝が生前に公式に後継者を指名せず、継承者の名前を書いた勅書を印で封印した後で紫禁城の乾清宮の正面に掲げられた「正大光明」と書かれた額の裏に置き、皇帝の崩御後、衆人立会いの下でこれを開き後継者を決めるという方式である。
--日本語ウィキペディア「太子密建」より
このドラマについて、史実とのくい違いについて話し始めたらきりがないわけです。このドラマがいかに史実をねじ曲げているのかといった文章を読んだこともあるように思います。
そもそも、この時代の満州人たちは、中国語をしゃべれないわけです。そういう意味では 《还珠格格》 《宫》 も、言語的にはでたらめなわけです。
しかし、このドラマ(というか小説)に対して、そんな指摘をすることに意味はないでしょう。このドラマの大胆なところは、最初--四阿哥が皇帝(雍正帝)に即位する--と、最後--四阿哥が皇帝(乾隆帝)に即位する--ということだけが史実であって、あとはすべてフィクションであるということです。
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さて、これまでこのドラマのなかで、いったい何人の人たちが死んでいったことでしょう。华妃をはじめとする后妃たち。太后も亡くなります。沈眉庄も死んでしまいました。流朱なんて、10年近くも前に死んじゃっています。
ここからラストまで、いったい誰が死んでいくのでしょうか--という問題ももちろんあるわけですが、それよりも〝要紧”なのは、皇帝の死期が近づいていることです。
最後に、いくつか書きたいと思っていて書けなかったことについて書いておきます。
翻牌子 |
この言葉は、 《宮》 でも出てきたように思います。
宝鹃 |
ラスト直前における甄嬛と叶澜依の、薬に関しての連携は、すさみがちな物語にあって、ぼくたちをほのぼのとさせてくれます。でも……。
江福海 |
皇后付きの宮女である剪秋と、皇后付きの宦官(太监)江福海は、あれこれ憎々しかったわけですが、ついには墓穴を掘ってしまうようです。
甄嬛の、最後の言葉はこうです。
“槿汐,我……” --やっぱり内緒にしておきましょう。
作者流潋紫:其实甄嬛是个失败者
幕后欢乐多 贵人死尸都难演
ラベル《甄嬛传》 --目次
1 后宫・甄嬛传 2011(1)--最後の孙俪(スン・リー)
2 后宫・甄嬛传 2011(2) --登場人物と役者
3 后宫・甄嬛传 2011(3) --清朝後宮のしくみ
4 后宫・甄嬛传 2011(4) --孙俪传(スン・リー伝)
5 后宫・甄嬛传 2011(5) --名セリフ集1
6 后宫・甄嬛传 2011(6) --名セリフ集2
7 后宫・甄嬛传 2011(7) --名セリフ集3
8 甄嬛传 第1集-第5集 --甄嬛の病気
9 甄嬛传 第6集~第10集 --闘いのはじまり
10 甄嬛传 第11集~第15集 --華妃の斜陽と復活
11 甄嬛传 第16集~第20集 --浣碧の迷走
12 甄嬛传 第21集~第25集 --安陵容の憂鬱
13 甄嬛传 第26集~第30集 --“腹黑女”は日本語
14 甄嬛传 第31集~第35集 --仮面(差異と反復)
15 甄嬛传 第36集~第40集 --皇帝と甄嬛の陰謀
16 甄嬛传 第41集~第45集 --あっぱれ、流朱の死
17 甄嬛传 第46集~第50集 --戻ってきた笑顔
18 甄嬛传 第51集~第55集 --回宫(後宮再び)
19 甄嬛传 第56集~第60集 --小競り合いの応酬
20 甄嬛传 第61集~第65集 --二人のじゃじゃ馬
21 甄嬛传 第66集~第76集 --皇后,杀了皇后
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